【先端科学 お届けします】生命科学の入り口に 理研の「いきもんぬりえ」出前授業
8月20日、夏休み中の大阪市立福島小学校で、理化学研究所(理研)の「いきもんぬりえ」を使った出前授業が開催された。小学生、特に低学年には難しい体の器官や生命現象のしくみを、ぬりえを通してレクチャーする。ぬりえとはいっても、専門の研究員による監修を受けたイラストを使用した本格派だ。
講師の高橋涼香さんは、理化学研究所生命機能科学研究センター(神戸市)で広報を担当しながら、文部科学省の令和8年度科学技術教育アドバイザーに就任。今回、アドバイザーとして初の授業に臨んだ。子どもたちの興味を自然と引き出し、終わってからも学びの効果が続くよう工夫された授業を取材した。

授業は、大阪市が放課後や長期休暇中に児童が活動できる場所を提供するサービス「児童いきいき放課後事業」(愛称「いきいき」)で、活動の一環として開催した。「いきいき」活動は大阪市から運営・管理委託を受けた団体によって運営されている。
科学技術教育アドバイザーは、STEAM教育の充実と科学技術分野の次世代人材育成を目的に、文科省が国立研究開発法人の研究者等を任命する制度。地域の要望を踏まえながら、自らの専門性や経験を生かしたSTEAM教育を推進する取り組みを実施したり、学校等への助言を行ったりする。
研究者が監修した「リアルなぬりえ」の魅力
「みんなの髪の毛、どんなふうに生えているか知ってるかな?絵をよく見て塗ってみよう」
高橋さんのかけ声で、出前授業「いきもんぬりえ」が始まった。手元に配られた冊子を開くと、理研の研究者たちが監修したリアルなイラストがそろっている。塗りやすさを考慮して多少デフォルメされてはいるが、専門家だからこそ知っている細胞や組織の正確な構造が緻密に描き込まれている。

「見本通りじゃなくて大丈夫、みんなが好きな色で塗っていいよ!」
高橋さんの明るい声に促され、子どもたちは思い思いの色で塗ってゆく。その様子を見ながら、イラストに沿ったレクチャーが展開される。
例えば「毛」のページでは、毛の根本にある「毛母(もうぼ)細胞」が髪の毛を作る元となり、その下にある「毛乳頭」から栄養をもらって増殖・分裂を繰り返すことで髪が伸びるしくみを解説。さらに、メラノサイトが色素を作って毛母細胞に渡すから髪に色がつくこと、だからメラノサイトが働かなくなると白髪になってしまうことを伝えると、「初めは全部白髪なの?」と不思議そうに質問する声が聞こえた。
また、毛1本1本には「立毛筋(りつもうきん)」という筋肉と神経がつながっていて、寒さを感じると立毛筋がキュッと縮むことで鳥肌が立つしくみにも触れ、身近な体の現象と科学が自然と結びつけられていく。子どもたちは自分の腕をさすりながら、鳥肌の持つ複雑さに驚いていた。

冊子には、毛の他に「肺」「腎臓」「網膜」「卵子」「蚊」等のぬりえが掲載されている。少ないようにも思えるが、各テーマに沿った高橋さんのレクチャーや理研で行われている研究内容が紹介されるため、授業としてはかなりの密度だ。例えば「腎臓」のページでは、腎臓は一度機能を失うと元には戻らず、多くの人が人工透析を受けている現状や、その課題に対応するべく、ヒトiPS細胞から作製した腎臓オルガノイドの研究が進められていることにも触れた。

自由な参加スタイルと集中力の両立 福島小いきいき活動室の授業環境づくり
教室全体を見渡すと、色を塗ることに集中する子、色は塗らずレクチャーやクイズに参加する子、あるいは夏休みの午後という時間帯もあり、少し眠たそうな児童も見られた。しかし、全員に一律な取り組みを強制することはない。それぞれのスタンスで参加して楽しんでくれたら、というのが講師の高橋さん、そして児童いきいき放課後事業の共通した思いだ。
「『勉強しなさい』と一方通行で教えられるのに比べると、ぬりえは手を動かしながら自然と細胞の形や輪郭に親しむことができます。まずは『なんだか楽しかったな』という体験を持ち帰ってもらうことが大切だと考えています」(高橋さん)

重要なポイントが一つある。子どもたちが思い思いに楽しめる環境は、単なる放任から生まれたものではないということだ。大阪市立福島小学校のいきいき運営担当である備後正明さんらが、綿密な事前準備を行っていた。
福島小学校のいきいきでは、外部から先生を招いた出前授業を非常に多く開催している。そのジャンルは「芸術」「産業」「食育」など、今回のような最先端科学から、プログラミングを活用した防災、気候変動と海産資源との関係に踏み込んだにぎり寿司の調理実習まで多岐にわたる。
こうした企画は、いきいき側が年単位でテーマを設け、企画案を作成したうえで、いきいき教室・小学校・保護者で話し合って決定している。ときには保護者から「ぜひこのテーマを」と提案が届き、実施に至ることもあるという。三者が「子どもたちの実りある経験」という同じ目標に向かって手を取り合い、学びの機会を築いている。

しかも、貴重な授業を一回限りのイベントで終わらせないため、備後さんたちは開催前から保護者に向けた案内や情報発信を行っていた。家庭内で事前に「どんな先生が来るのか」と話題に上り、出前授業への関心が大きく向上する。授業の内容が子どもの興味・関心と適合する場合、「この出前授業のために塾の時間を調整した」「家族旅行の日程を変更して参加した」という家庭が出るほど、保護者の思いも強いという。こうした事前のアプローチが功を奏し、子どもたちは自発的に学びへ向かう準備ができた状態で、当日を迎えることができる。
「ただ場当たり的にイベントを開催して『楽しかった』だけで終わってしまうと、残るものはそれほど多くないでしょう。家庭で『今日の授業はどうだった?』と振り返ってもらい、子どもたちが折に触れて思い返せるような継続した学びになることが一番の目的です」(備後さん)
授業後も質問が止まらない ぬりえが子どもたちに残したふしぎの種
今回、高橋さんはなぜ小学生に向けて授業を試みたのか。現在、理研の広報を担当している高橋さんは、科学コミュニケーターとして最先端の研究と社会をつなぐ活動に日々取り組んでいる。しかし、小学生に向けた活動には構造的な難しさがあったという。
「研究機関のアウトリーチ活動では、数年以内の研究人材獲得といった直接的な効果が見えやすい大学生以上が対象になりがちです。小学生対象の取り組みは草の根的になりやすく、短期間では成果が見えにくいことから、継続的な取り組みに繋げる難しさがありました」(高橋さん)
「最も好奇心旺盛な小学生に向けて、なんとか最先端の生命科学に触れる機会を提供したい」と考えていた高橋さんにとって、大きな転機となったのが、文部科学省の「科学技術教育アドバイザー制度」への就任だった。制度のおかげで、小学生の元へ出向きやすくなった。

長年の思いの末に実現した、初の小学生向け出前授業。手応えを聞いてみた。
「正直なところ、手元にぬりえを配ると塗ることに夢中になって話を聞いてくれないかもしれない、と心配していました。実際に授業をしてみると、ぬりえで手を動かして境界線や形をなぞるから、本来なら低学年の子どもたちには難しすぎるテーマを自然と届けられました。『いきもんぬりえ』の持つ可能性を実感できました」(高橋さん)


高橋さんは今後、この「いきもんぬりえ」をはじめとする多様なコンテンツを携え、全国の学校現場へ積極的に出向いていきたいと抱負を語る。
「生物分野の科学技術教育アドバイザーはまだ全国的にも限られています。声がかかれば全国どこへでも伺いたいです。『うちの学校でも生命科学の面白い授業をしてほしい』と思われる先生方がいらっしゃれば、ぜひこのアドバイザー制度を活用して気軽に呼んでいただければと思います」(高橋さん)
今回の出前授業を受け、福島小学校のいきいきでは、理研の一般公開への遠足も検討したいとのこと。研究機関にとっても、学校現場にとっても、科学技術教育アドバイザー制度を架け橋として活用することで、「最先端研究×小学校教育」の学びの場が全国へ広がっていく可能性を示している。
