探究・STEAMの現場から

【先端科学 お届けします】学校・市と三位一体で授業での学びと最先端科学をつなぐ―神戸医療産業都市推進機構

宇津木聡史 / サイエンスライター
掲載日
2025.09.26

 中学生にとって先端科学は一見遠い世界かもしれないが、科学は基礎から積み上げられる知の体系であり、最先端の研究も理科の授業と地続きにある。そんな先端科学の集積地が、神戸市南部に浮かぶ人工島「ポートアイランド」だ。30年前に発生した阪神・淡路大震災からの復興事業「神戸医療産業都市構想」のもとで発展し、現在では347の研究機関や病院、企業などが軒を連ねる。今回取材したのは、構想の中核的支援機関である神戸医療産業都市推進機構が神戸市教育委員会と連携して行った出前授業。学校側に負担をかけずに、理科の学習指導要領に沿いながら先端科学とのつながりを見事に伝えていた。

約130人が学ぶ神戸市立唐櫃中学校

地元への就職を選択肢に

 訪れたのは、ポートアイランドから北へ14キロメートルほどの山あいの地域にある神戸市立唐櫃(からと)中学校。太閤秀吉に愛された天下の名湯・有馬温泉にもほど近く、六甲山の懐に抱かれた場所だ。今回の出前授業は、3年生の理科の時間1コマを活用して行われた。

 「ノーベル賞を受賞すると、もらえるものは何ですか。周りの人と話し合ってみて!」

 講師を務めた井上千浩さん(神戸医療産業都市推進機構サイエンスコミュニケーター)は、冒頭で生徒たちに投げ掛けた。この内容から授業を始めたのは、同機構名誉理事長である本庶佑博士が2018年にノーベル生理学・医学賞を受賞したから。生徒たちはグループ学習に慣れた様子で、「お金」「メダル」などの声があがる。少し緊張気味だったクラス内の空気があっという間に柔らかくなった。

冒頭の質問の答えは「金メダル」。そこから金属の密度についての説明に移った。井上さんは、身近な話題から徐々に核心へつないでいくことで生徒の関心を高めていた

 機構が出前授業を行う目的の一つは、神戸医療産業都市で研究されている再生医療などの説明を通して、地元に先端科学を扱う施設があると知ってもらうこと。意外にも神戸市は若者の市外流出に悩みを持っており、地域の強みや魅力を伝えることで地元への就職を選択肢にしてもらうことが狙いだ。

 田尾憲一さん(神戸市企画調整局医療産業都市部係長)も「授業をきっかけに再生医療などの道に進む生徒が現れてくれたらうれしいですね。もしかしたら、その中からノーベル賞を取るような人が出てくるかもしれません」と、未来を担う次世代の育成に期待を寄せている。

「出前授業には行政も主体的に関わっている」と語る田尾さん

直感的な説明と復習タイムで理解を深める

 いよいよ神戸市が誇る先端科学の話題だ。井上さんは、神戸医療産業都市で行われた世界初のiPS細胞を使った網膜の移植例を紹介。病気(加齢黄斑変性)を説明するときには東京タワーがゆがむ映像を見せながら「このように物が見える病気です」と、難しい言葉を使わず直感的に説明していたのが印象的だった。

iPS細胞の作り方を説明するときは時計の針が逆回転する映像を見せながら「細胞分裂の時間を戻して初期状態に戻す」と直感的に伝えるなど、知らない言葉をなるべく使わない井上さんの工夫が随所に見られた

 また、同校理科教員の堀江敬子さんによる「復習タイム」がときどき入っていたことも特徴の一つ。学校で細胞について学んだばかりの生徒たちが、iPS細胞などの先端科学と授業がつながっていることを実感できる展開になっており、科学に対する興味と理解の高まりが鮮明に見られた。

 その後は、井上さんが遠隔操作ができる手術支援ロボット「hinotori™」やスーパーコンピューター「富岳」など、神戸医療産業都市で取り組まれている最先端の科学研究や設備、施設を紹介していく。また、この場所で働く人の職種、特に病院で働く人たちの姿も紹介するなど、キャリア教育の話題にも発展。すべての話が終わると、生徒たちから自然と拍手が巻き起こった。

出前授業で「イエーイ!」と元気よく返す生徒たち

 授業を受けた生徒に感想を聞いてみた。

 一人は「iPS細胞はまるで時間を巻き戻すようにして作られ、そこから身体のさまざまな細胞に変えるという治療法に驚きました。ここまで技術が進んでいるんだって」と、少し興奮したように話してくれた。別の生徒は「遠隔で手術できる機械がすごかったです。神戸にいながら、東京にいる名医に手術をしてもらえるようになるのかなと思いました」と、近未来を楽しそうに想像していた。

 中学生には少し難しい話も出てきた今回の授業。内容の難易度について聞いてみると、「確かに難しい部分もありましたが、とてもわかりやすかった」と、難解な先端科学の話題もしっかり理解できたようだ。

井上さんと堀江さん(左)が掛け合いながら進む授業スタイルが印象的だった
井上さんと堀江さん(左)が掛け合いながら進む授業スタイルが印象的だった

先生の負担はほとんどない

 今回の出前授業は、教育委員会からの「機構と連携した授業を実施できますよ」という堀江さんへの提案がきっかけだった。授業の内容には中学3年生の理科の教科書に載っているiPS細胞など先端科学の知識が多く含まれており、生徒たちが細胞について学んだあとのタイミングで実施できることから「これは良い復習になる」と感じ、校内手続きを経て理科の授業時間を提供することにした。

 授業では堀江さんと井上さんが息の合ったやりとりを見せていたが、意外にも「打ち合わせは始まる直前に数十分しただけ」(堀江さん)だという。通常、出前授業は打ち合わせなどで現場の負担を増やしてしまいがちだが、堀江さんによると今回の出前授業は「まったく負担がなかった」とのこと。

「前日まではメールでスライドの内容を共有する程度でした」と負担の少なさを強調する堀江さん

重要なのは「子どもたちに寄り添うこと」

 このような状況を可能にしたのは、井上さんが教育委員会からの意見や助言を踏まえて、中学校理科教育に沿った内容に仕立てているからだ。出前授業キーパーソンの一人、鴛海伸一さん(神戸市教育委員会事務局学びの推進課係長)は、科学の最先端を伝えるときも「生徒に寄り添うことが大切だ」と強調する。

 「講師の方は目的や使命があるので、『知ってほしい』という気持ちが強くあるんですよね。気持ちはよく理解できますが、あまりに思いが先行してしまうと情報が一方通行になって、生徒たちはしんどくなっていく」と指摘。

「伝えたい情報が100あるなら、1にまで絞り込むくらい」の精査が重要だと語る鴛海さん

 井上さんも、難しい言葉を使わずに中学生がわかる説明の仕方に変えたところ、授業後のアンケート結果が大きく変わり、生徒の理解度が高まったことがうかがえたそうだ。

 また「鴛海さんの助言の中でも、特に大事にしているのがコミュニケーションです」と井上さん。授業中は、生徒同士が協力しながら自ら考える機会をできる限り増やしているという。その工夫は、唐櫃中学校で力を入れている「協働学習」の方針にも沿っている。

 鴛海さんも、今の井上さんの授業スタイルを「生徒に寄り添いながらも、数多く問いかけて考えさせる場面が多い授業になっていて、難しいことでも学ぼうとする意欲が高まっていく流れができている」と評価する。井上さんたちの授業の作り方は、最先端の科学を届ける上で参考になりそうだ。

鴛海さんからのアドバイスを踏まえて、単に情報を出すのではなく生徒たちに「届ける」ことを第一に考えて授業を作っていったと話す井上さん

“出前授業”ではなく“連携授業”

 今回の授業の大きな特徴は、最先端科学の知識が学校の学びの中に自然に取り入れられるよう工夫されている点にあると思われた。それを可能にしているのは、学校や研究機関だけでなく、自治体や教育委員会など多くの関係者が三位一体となって協力していることで、鴛海さんの「これは“出前授業”ではなく“連携授業”なんです」という言葉が印象的だった。
 
 井上さんも次のように語る。「神戸医療産業都市を知ってほしいというより、私たちが市民やその子どもたちに何を提供できるのかを考えています。今回は、学校での学びと関連した最先端科学の知識を提供できると思ったんです」。情報を発信する際にも、大切なのは“相手が求めることの中で、自分たちに何ができるか”を探ることだと強調する。

 井上さんは同時に「片思いではダメ」とも指摘。互いにとって有益な“両思い”の関係をつくる工夫がなければ、思いも情報も相手には「届かない」と井上さんは語る。子どもを取り巻くさまざまな立場の人々が連携し、地域の子どもたちのことを第一に考えて授業を作り上げていくことが、STEAM教育を実りあるものにする一つの方法なのかもしれない。

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